追悼文2 櫻井先生の追憶 東京帝国大学 名誉教授
柴田雄次
科学 第9巻 第3号 
  1930年ベルギー国リェージュ市で催された万国化学協会第10回協議会に出席した私は会場で英国の代表Donnanにあって挨拶を交わした。Donnanはそのとき私にProf.Sakuraiは御機嫌良いかと尋ね独り言のように低い力強い声で“He is a wonderful man” と言ったのをはっきり記憶している。之には必ずしも一英国紳士の辞令とばかりは受取れない響きがあった。先生いまさぬ今日私はこの時の情景を回想して英国の碩学Donnanの一語が誠に先生の御一生を端的に言い表していることを痛感するのである。先生の伝記は本誌<科学>に於ける大幸博士の筆に又数々の記録に詳らかであるから茲に繰り返すことは避けるが現今の中学卒業生の年頃には既に抜擢<抜選>せられて英国に渡りまた又大学卒業生の年齢には夙<ハヤク>も大学教授に任ぜられたと云う先生壮時に於ける異数の進境は必ずしも時代の為めとばかり取られない。英国留学中に於いて成績抜群の為め屡<シバシバ>受賞せられ給いしと聞くが未だ母国には科学らしい科学なかりし当時若冠<弱冠>にしてファラデー、デヴィーを生んだ国の大学に入り忽ち同輩を凌ぐ成績を得られし努力は吾人の想像に絶するものがある。先生の英語は世に定評のあるものであったが嘗<カツテ>吾人が親しく伺った処によれば例えばシェイクスピア劇の演ぜられるときは先ず其の全文を暗記して観劇に赴かれ帰ればその台詞を真似られたとのことである。5年の在英は決して長しとはいえないが英語の会話に於て先生の右に出づるものの尠<スクナ>いと聞くも誠に其の故ありで学術に於ても亦此行き方であったのであろう。

  私が第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学化学科に入学したのは明治37年の7月であったが、其の当時先生は化学量論、熱化学、光化学を一つにした物理化学と並びに有機化学を講ぜられていた。英国に於てWilliamson教授の高弟として当時振興の物理化学を深く学ばれ本邦に移し植えられた先生の講義の魅力が本邦に多数の優秀なる理論化学者輩出の基をなしたことは云うまでもないことであるが当時偶<タマタマ>、留学中であった松原教授の留守を預かって傍ら講ぜられた有機化学の理路整然としてを駆って大道を行くが如き名講義シ=4頭立て馬車=岩波漢和辞典には吾人は全く魅了せられたものである。先生の御講義中には彼の有名なる沸点上昇法による分子量測定に関する御業績のあったことは勿論であるが又、グリココルの水溶液の電気伝導度の微小なる事実からその環状構造なることを証せられたお話も非常な興味を以ってうかがいながら筆記のペンを走らせたことを記憶している。この御業績は側檟並びに分子内錯熙の概念に先駆するもので今日の化学上重大の意義を有するものと云うべきである。

 明治40年より大正8年に至る11年間に亙る理科大学長及び理学部長としての先生の行政的御功績は吾人の云々を要しないが我化学教室としては大正4年に新築の工成って移転し当時としては最新設備を具へた化学教室として偉容を誇り得たのも想い出の一つである。大正8年に定年制確立の範を示すべく退官し給ひしときは(尤も田中館先生は同じ意味でこのとき既に退官せられていたが)吾人は慈父を失った如き寂莫を感じものである。




然し先生の学界に於ける活動は御退官後と雖も<イエド>亳<バク=
高い地点に設けられた安住後=大修館漢語林>も止む時なく、之より先欧州の戦塵尚静まらぬ大正6年にはUボートの出没する海路の危険を冒して英国に渡られ万国学術協会設立の事に与えられ、又本邦国内には学術研究会議を設立して学術の国際的連絡の機関を設け同8年には科学的知識尚幼稚なりし我朝野<官と民>を説いて理化学研究所を設立せられた。その当時の御苦心は別に語る人もあろうが更に昭和6年に日本学術振興会を興して今日欝然<ウツゼン=草木が盛んに茂るさま=広辞苑>たる学術研究助成機関を完成せられし当時の想い出は私にも新たなものがある。先生当時既に古希超ゆる数年、世の常の老人ならば児孫に擁せられ風月を楽しむべき御齢であったが当時本邦学徒の間に勃興しつつあった科学研究の熱意が研究の資なくして萎縮に傾くを慨し欧米の研究助成施設を取調べつつあった林春雄博士、田丸節郎博士等の説を聴いて此問題の一日も怱<ユルガ>せにする可<ベカ>らざるを感ぜられ此前途多難なるべき大事業の創設に対し実に壮者意気を以って猛然として立たれたのである。一日先生は私の研究室を叩かれ此事業に乗り出す決意を語られ、私に事務的の細事を助けよと乞われた。私も先生の意気に感奮して林、田丸両博士の驥尾に附し何呉れ蔭の御手伝をしたつもりではあるが愚鈍却<カエッ>て先生の手足纏ひとなったのではないかと今尚冷汗三斗の思ひである。と云うのは或る時先生の示された帳面に事細やかしく会計の収支が記されてあった。之は或いは私の役目であったのかも知れず赤面した次第である。実を云うと私等は最初此事業が果して計画通り進行するかとの危惧を抱いていたが、先生が日夜を分たぬ絶大な御努力によって大体の目鼻の附いた或る日、本邦学界の権威を一堂に集めてその大網を示され席上の演説に於て「私は此事業を完成せぬ内は死ぬにも死なれない」と述べられた。この全身を投げ出しての一語は堂内に凛たる響きを伝へ一堂粛然たりしことはそのとき出席せられた諸学者の尚記憶に新たなことと信ずる。去る1月19日には日本中の学者が集まる恒例の日本学術振興会の年会が上野精養軒に開かれた。この日壇上からわが生みの子の育ち行く様を快げに眺めて一場の演説をせられた先生の御姿は公会の席上に於ける最後のものとなったが測らずも之が悲しき決別となった。吾人学徒は染井の森に鎮まり座す先生の御霊に感謝の祈りを捧げなければならない。

追  悼  文
  1    大幸勇吉   2     柴田雄次   3      片山正夫   4     市河晴子
  5     阪谷芳郎   6  Yamaguchi Einosuke   7     桜根孝之進   8    佐佐木信綱
  9   Mizuno Yoshu   10    小原喜三郎  11     宮崎静二  12    奥中孝三
 13     大西雅雄  14     大幸勇吉  15      柴田雄次  16     鮫島実三郎